研究会第5回HINDOWS文学研究会「戦争と文学」
日時 2025年3月29日
菅原由美 「『ディポヌゴロ年代記』にみるジャワ戦争−戦ったのは誰と誰か」
河崎 豊「ジャイナ教文献の中のクシャトリヤと戦争」
成果
第4回HINDOWS文学研究会はオンラインで開催され、発表者を含め11名の参加者があった。
発表者の菅原由美は、ジャワ戦争について記述された『ディポヌゴロ年代記(Babad Dipanegara)』を扱った。1825~30年にジャワ島で起きたジャワ戦争(ディポヌゴロ戦争)は、従来の歴史概説においてジャワ宮廷側による最後の植民地抵抗運動であるとされ、この戦争終結後、オランダによるジャワの植民地経営が本格化していったとされている。しかし、この戦争を率いたディポヌゴロ王子は、幼少期より王宮から遠く離れた、イスラーム家系の曽祖母の元で育てられた特異な背景をもつ王子であり、この戦争の終結を難しくしたのはジャワ各地のイスラーム勢力の加勢であった。オランダがジャワに関与し始めた17世紀以降、ジャワでは王宮、イスラーム勢力、オランダの三者の関係は複雑なものとなっており、王宮がこの抵抗戦争を支持していたとは言い切れない。『ディポヌゴロ年代記』は、ジャワ戦争について記述されたジャワ語文学であるが、ディポヌゴロ王子本人による自伝以外にも、様々な立場の著者によって書かれたバージョンが存在している。ジャワ戦争研究第一人者であるP.キャリーによれば、スラカルタ宮廷バージョンは王子がイスラーム勢力に近すぎることを批判していた一方で、オランダと対決していた彼の立場を密かに支持していた宮廷人も少なくはなかったとも付け加えている。このようにスラカルタ宮廷のディポヌゴロに対する態度は、両義的なものであったと思われ、宮廷とイスラーム指導者との間の緊張関係を見ることができる。では、このジャワ戦争は誰と誰の戦いであったのだろうか。ジャワ民族を植民地化から守る戦いであったのか、それともオランダとその同盟を組む宮廷に対するイスラーム勢力の反乱と理解すべきなのだろうか。本発表では、『ディポヌゴロ年代記』を再検討し、上記の課題について論じた。
発表者の河﨑豊は、非暴力を重視すると一般的に考えられるジャイナ教において、ジャイナ教徒の戦争参加がどのように正当化されてきたかを、白衣派ジャイナ教聖典『ヴィヤーハパンナッティ』、ヘーマチャンドラ作『トゥリシャスティ・シャーラーカー・プルシャ・チャリトラ』および『ラグ・アルハンニーティ』の記述を中心に紹介した。主な論点として①暴力に加担するか否かという精神状態の有無を重視し、王や共同体からの命令による従軍は認められること、②敵からの先制攻撃に対する反撃のみが許されること、③臨終時に出家戒を受ければ天界再生が可能であること、④初代ティールタンカラとなったリシャバが説いた真のダルマを再興するという立場から、ジャイナ教が戦争倫理 ― しかしその内容はヒンドゥーの諸文献と全く異ならない ― を説いていることなどを示した。